公益財団法人東京大学学生キリスト教青年会

東京大学学生キリスト教青年会(東京大学YMCA)は、東京大学の学生間にキリスト教を宣べ伝え、かつその霊性、知識、身体の発達をはかるために、日本初の大学YMCAとして1888年(明治21年)5月13日に創立されました。>

財団について

東大学生キリスト教青年会略史

東大学生キリスト教青年会(東大学生YMCA)は2020年に創立132周年を迎える「公益財団法人」です。

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台町会館

1888年(明治21年)5月13日、現在地に近い西片町10番地、木村熊二牧師宅に集まった大西祝、高田耕安ら9名の当時の「帝大生」によって創められたこの青年会は、10年後本郷台町に寄宿舎を持つ会館を建設、祈祷会、聖書研究会の外、「伝道講演会」を行っていました。これらの活動と会館建設には当時アメリカのYMCAから派遣されていたスタッフ達の熱心な聖書研究指導や財政支援がありました。そして1906年(明治39年)には「財団法人」格を得ています。台町会館からは英文学者斎藤勇、医学者三田村篤志郎、後の総理大臣片山哲が出ています。この時期は「明治憲法」の制定、「教育勅語」の発布と共に藩閥政府からのキリスト教弾圧が始まった時で、日本のキリスト教は国家主義と唯物論からの攻撃、同時代に伝わった海外からの新しい神学への対応にも苦しんだ時代でした。東大青年会の中には「ユニテリアン」(神は唯一でありキリストは宗教的偉人であるが神でないとする神学)に走る者もありました。その後台町会館では学生を収容出来なくなったため、新しい会館を現在の旧本郷追分町に作ることとなり、1912年(明治45年)から学生は5年間千駄木の民家に分宿することとなりましたが、活動は続けられました。この分宿時代には後の専務理事藤田逸男、戦後の文部大臣森戸辰男、建築家遠藤新、賛育会を創設した河田茂、後の衆議院議長星島二郎がいました。またこの頃には韓国・台湾からの留学生も在舎し、その多くは卒業後本国で活躍しました。本郷追分町の新会館は正面に煉瓦造五階建会館、奥に木造四階建の寄宿舎に講堂、体育館が付いたもので、1916年(大正5年)ヴォーリスの設計、遠藤新の監督、清水組(現清水建設)の工事により完成します。この会館は一種の「文化センター」としても用いられ、上野の音楽学校(現東京芸大)の先生であった弘田竜太郎などによる音楽会やオーケストラ演奏も行われました。

追分会館(旧)

追分会館(旧)

この会館は1923年(大正12年)関東大震災で大きく損壊し遠藤新により「ライト風」に改装補修されますが第二次世界大戦を潜り抜けて1973年(昭和48年)まで存続しました。ここからは、先輩である吉野作造が「民本主義」の狼煙を揚げ、その影響を受けた学生の中から、赤松克麿、松澤兼人、河野密、森戸辰男などが後の社会党の代議士になりました。また片山哲・星島二郎による「無料法律相談」河田茂による「「賛育会」、藤田逸男による「生活協同組合」が産まれました。1928年には創立40周年を記念して「全国キリスト教学生討議大会」を御殿場の東山荘で開催し、これが後の「SCM運動」の契機となりました。日本が「大東亜共栄圏」を叫び戦争へと突き進みキリスト教が圧迫される中、1939年(昭和14年)神田共立講堂で3千人を集めた「特別学生伝道集会」が行われましたが、この時の実行委員長は、後の昭和女子大理事長となった東大の人見楠郎でした。その4年後には学徒動員が行われ多くの学生が戦争に駆り出されて行きました。東大青年会では山本富雄がグアム島で捕虜となり米国まで連行されて日本では「戦死」とされましたが、無事帰国、市瀬晴夫はフイリッピンで戦争犯罪人として処刑されるところを齋藤惣一などの助命嘆願運動により処刑を免れました。一方本郷の東大YMCA会館は空襲被害が直近にまで及びましたが石原力など残った舎生の奮闘により焼失を免れました。

追分会館(新)

追分会館(新)

戦争が終わった1945年に産まれた「東京キリスト者学生会」には東大青年会から江口篤壽、白戸四郎、石原力らが参加し早稲田の奈良信、一橋の寺田武男らと協力、これが全国の学生YMCAの復活に繋がりました。1947年社会党を率いる片山哲が首相になり森戸辰男が文部大臣になりましたが、1年足らずで辞職しました。当時は米軍の占領下でマッカーサー司令官から「再軍備」を迫られたのが辞職の真因と言われています。

東大青年会では戦後10年を経て寄宿舎の「アパート化」が問題となり、これを契機に荒木亨が青年会の資料を整理し「年表」を作成することを決意し1957年に完成、それまでの歴史資料が整理されました。またこの時期には「宗教音楽研究会」「子供会活動」同人誌「あめんどう」、「本木セッツルメント支援活動」が産まれました。1960年の「安保闘争」後、所謂「所得倍増」による高度成長時代に入り「東京オリンピック」を迎えますが、海外から「貿易と資本の自由化」を迫られる中、1968年大学紛争が始まります。これは東大医学部のインターン問題をきっかけに始まりましたが、フランス等海外の学生紛争も影響して全国の大学に波及しました。東大では翌69年「安田講堂の占拠・排除」により収束に向かいますが、此の年の東大入試は中止、教師と学生間に不信が残り、同年の学生YMCA夏季学校は伝統の東山荘ではなく東大青年会で開かれ「解体」を宣言、全国の学生YMCAは壊滅的打撃を受け、辛うじて寄宿舎のある所が「生き残る」状態でした。

現会館

現会館

この間東大青年会では50年を超える木造建物の老朽化が進み建替えを迫られることとなり検討の結果、現在のようなマンションビルの一角に入ることになりました。この計画と交渉に当たったのは大正末期卒業の植田武彦、山崎幸一郎であり昭和初期卒業の方々がこれに協力しました。内装の設計には戦後卒業の岩井要が元の面影を残す工夫をし、さらに組織と建物を守るため当時70歳の馬場進が専務理事となってその後の維持・発展に尽くしました。現会館1975年新会館が完成、会報も復活し、月例の聖書研究会、OB座談会、春秋の公開講演会が行われるようになり現在に至っています。1988年には創立百周年を迎え、記念礼拝の他「百周年記念誌」を刊行しました。これには多く先輩が協力したばかりか現役舎生も大きな貢献をしました。その時の学生には後に東大数物連携宇宙研究機構長となった村山斉、東京農工大教授となった三沢和彦がいました。

1998年創立百十周年を迎えた際には「科学技術の発展と人間・社会」をテーマとしたフォーラムを開催し各界で活躍する先輩がそれぞれの専門分野から幅広い提言が行ないました。「解体」された学生YMCA夏季学校は「夏期ゼミ」と名前を変え場所を転々としていましたが、再び御殿場東山荘に戻り既に40年を超えます。

東大青年会は2011年、公益財団法人の認可を受け、会費・寄付等について税制上の恩典が得られるようになりました。また2014年から女子学生に門戸を開き、これまでの留学生に加え、舎生の多様性が広がっています。